ほのか | 留学を夢見る大学生の日記

4か国に留学した大学生が、経験や現在や夢や日々のことを残していく日記

被災者を助けたかったら、外国語を勉強したほうがいい

私がイタリア語を勉強しようとしたきっかけ

テレビをいつものように見ていた夏の暑い日、目に飛び込んできたのは一夜にして光景が変わったイタリアの小さな村の映像だった。あの青い空は、やけに記憶に残っている。

リモコンを持ちながら祈ることしかできなかった私は、イタリア語の勉強をはじめた。

イタリア語ができるようになれば、きっと私も誰かを助けられると思っていた。

8年が経ってわかった、たったひとつのこと

この夏でもう8年になるけれど、私にはいまだに、被災したひとにかける言葉が見つからない。

遠く離れた極東の島国に住む人間と、あの青い空の下に住む人間が、Facebookなどで簡単に繋がれる世の中になった。「被災者」だからではなく、ただ単にひとりのお友達として、私達はいつだって話している。

それでも、私はいつも言葉に詰まる。

イタリア語が話せない幼い少女が、イタリア語がすこしだけ話せる22歳の人間になっただけだ。所詮、外国語を勉強して被災者を助けたいなんてひたすら遠い夢だったのだろうか。

そんなことはないと思っている。

私がこの月日を経て気づいたことは、「私はなにもわからない」ということ、ただそれだけだ。

それでもイタリア語を勉強して良かった

それでも、私はイタリア語を勉強したことを後悔していない。

Google翻訳で書いた完璧に見える文章よりも、片言のイタリア語のほうが当然伝わる。そして、新聞記事も言語の壁なく読めるようになったし、自分の言葉でなにかを言葉にできることの喜びは、言葉にできない。

片言でもいいから、現地の言葉でなにか喋ったほうが、通訳やGoogle翻訳に丸投げするよりもずっと伝わるし、たとえその現地の言葉が間違っていたとしても、その気持ちは必ず通じる。

能登半島地震で無力感を感じているひとは、外国語を勉強しよう

テレビの向こうから、温かい部屋から、祈ることしかできないのは同じことだと思っている。

自分が行ったとして、足手まといになるだけだし、実際に無理にでも行ったひとたちは当然ネットでかなり叩かれている。

「やらない善よりやる偽善」という言葉は、いまは通用しない。

「やる善」の側の人間を邪魔して良い理由など、ひとつもないのだから。

私はこのブログ記事の読者を日本語が分かるひととして想定している。ならなぜ「外国語」なのか?

それは、外国語を学ぶことで、新しい日本語の言葉に出会えるし、語彙が増えるし、日本語を外国語というシートを1枚挟んだ世界から見ることで、より「伝わる」言葉が選べるからだ。

日本語を勉強するのももちろん良いのだが、私の経験では、外国語を通して日本語を勉強したほうが、より日本語というものの特性を理解できるし、それは日本語をよりよく使うために必ず役立つ。